mountaineering 八ヶ岳

八ヶ岳縦走(二日目 横岳登頂)

 

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赤岳の山頂には、太陽が一番高い所から少し下がってきた午後1時。
山頂の横にある山小屋の前では皆が思い思いの岩に腰をかけ、お湯を沸かしたり、キュウリをかじったりしていた。
僕はというとカロリーメイトの一袋をあけ、水と一緒に飲み込んだ。

山の稜線は遥か前方に延び、人が歩く場所が白茶けた線となって山頂から山頂へと線を引いていく。
森林限界に到達しているのか、ある地点を過ぎると木と呼べるものはほとんど見かけなくなり、くるぶし辺りまで伸びている草すら稀になっていた。
青々とした下草と白茶けた岩とのコントラスト、それを包む空の青さが、その中に浮かぶ雲の白さがたまらなく美しい。

 

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登り始める前に今夜の宿を、と考えていた赤岳鉱泉を探すと、遥か山の麓の方にそれらしき施設群を発見した。
どうやら、僕は大きな勘違いをしていたようだ。山から下りずに一晩過ごせる場所として、温泉のある赤岳鉱泉に目星をつけていたのだが、一度山を完全に降りなくてはならないらしい。

自分の勘違いであることを祈りつつ、コンパスと地図を見比べる。
残念ながら、今回は自分の勘違いではないようだ。

僕は地図をしまいこみ、肺から一度大きく空気を吐き出すとザックを背負いなおし、赤岳から1時間程のところにあり、
八ヶ岳の中で主峰赤岳に次ぐ高さを持つ横岳へと向かった。

今までの道中と違い、赤岳から横岳への道のりは心躍る岩場の連続だった。
一歩山とは逆の方向に足を踏み出したら、後はそのまま気持ちよく死ぬことが出来そうな、
そんな魅力的な崖が連続して存在していて、もし自殺したくなったらここに着てみようとか、
ここまで来てしまったらもう自殺するつもりなんてなくなっちゃうかな、とか考えていた。
それぐらい、吸い込まれそうな緑の絨毯だった。

 

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いつしか僕も行き違う人たちと、自然に言葉をかけあうようになっていた。

「こんにちは」

「どちらまでいかれるんですか?」

「先に行ってください」

「どちらから?」

「良い眺めですね」

なんのことはない、ごく普通の言葉。
それらがお互いの存在を強く意識させる。
自分が言葉を発する生き物であることを思い出す。
あまりにも大きな存在の中で生まれる一種の連帯感だろうか。

ある岩場に差し掛かったときに僕は辺りが騒がしいことに気がついた。
うわー、とかあー、とか言う声が前後の人たちから上がる。
辺りを見回してみると、
太陽はまだ空の上の方にあり、僕の進行方向の左側、つまりは西側から、強烈な光を放っている。
右側は越えられない壁に苦しむ雲が僕の足元に広がっていた。

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と、そのとき僕の影が何も無い空間の奥に向かって、歩き始めた。
実際には歩いていく訳がないのだけれど、自分の影が、何も無いはずの空間に投影されているのだ。

 

 

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そして歩き始めた影の先端に丸く虹が生まれた。
一瞬の空白の後、湧き上がる感動。
僕の足はしばらく前に進むことを忘れ、手を伸ばせばそのまま虫かごにしまって
持ち帰れそうな景色に見とれた。
実は最初に一瞬現れた時には写真をとることを忘れてしまった。
もう一度、もっと鮮明に見せてくれたのはサービス精神旺盛な太陽のおかげか。

そこからさらに少し歩いた岩場の前で一息入れていると、そこで腰を下ろしていたおじさんに話しかけられた。
僕の倍ほどもあるザックをおろして、水分補給はそこから延びたチューブで行っていることから
彼がこの山に限らず登山を趣味としている人であることは容易にうかがい知ることが出来た。

「どこまでいくの?」

僕はこの質問が苦手だった。何故なら僕には目的地が無いから。

「どこまでいけるか考えてます」

こう答えると、若さをうらやむか、少し顔をしかめるか、どちらかの反応をして会話が終了することは
ここまでの経験で知っていた。だが、彼は違った。

「じゃあ、あんた若いから本沢温泉まで行ったら良いよ。
テン場もあるし、俺もそこいくから。ここからでも5時過ぎには着けるだろ。」

リミットの15時が迫ってきている中、目的地を定めることが出来ていなかった僕にとって
この言葉には大変助けられた。目標の一つとして候補には上げていたものの、
コースレコードを見る限りで日が暮れてしまうため、諦めていた場所のひとつだったのだ。

もう少し休むというおじさんに別れを告げ、進み始めた僕の足取りは思いの他軽くなっていた。
体力があるうちはどこまでいけるのかを考えながら進むのも楽しいのだ。
しかし、目減りする体力と、差し迫る時間とを考えながら目的地を定める、
それも全てが初めての場所で。
これには思いの他やられていたらしい。

 

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その後もいくつか岩場を乗り越え、ようやく横岳に到着したのは行動のリミットとして
きつく言い渡されていた15時のことだった。
一応現実的な範囲で目的地も定まっていたし、山の経験者が大丈夫だと言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。

ここから先、本沢温泉に至る道には八ヶ岳で3番目に高い硫黄岳(2,760m)があり、そこから一気に500メートルほど下った
2,150m地点に本沢温泉はある。
日本最高地点にある温泉なのだとか。楽しみだ。

 

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